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小丸川発電所展示館 ピノッQパーク 18日オープン

7月18日(金)にオープンした、九州電力小丸川発電所展示館ピノッQパークとはどんな所

県道22号線を日向市東郷町へ向けて走ります。
木城町役場から車で20分程度で到着。
入場は無料です。
来場者全員にオリジナルグッズのプレゼントがありました。

早速、水圧管ゲートを通って、メイン展示ホールへ

hiroの部屋 小丸川発電所展示館 ピノッQパーク

絵本型パネルです。

hiroの部屋 小丸川発電所展示館 ピノッQパーク

こんなに大きい!小丸川発電所 発電のしくみを知ろう

hiroの部屋 小丸川発電所展示館 ピノッQパーク

バーチャル水遊びです。
映像の水の中を、魚が泳いでいます。

hiroの部屋 小丸川発電所展示館 ピノッQパーク

ロボット発電ゲーム
一生懸命に回しています。
他に、揚水発電パノラマ劇場、ターゲットスコープがあります。

hiroの部屋 小丸川発電所展示館 ピノッQパーク

開館イベントとして陽気なピエロ"メロンちゃん"のパフォーマンス・ショーをやっていました。

hiroの部屋 小丸川発電所展示館 ピノッQパーク

建物中央の丸く見えるのは、原寸大の「水圧管」の断面モデルです。

hiroの部屋 小丸川発電所展示館 ピノッQパーク

約2キロのトンネルの奥にある大きな地下発電所の見学が出来ますが、団体のお客で事前の申し込みが必要との事です。


小丸川発電所展示館 ピノッQパーク
開館時間 9:00~17:00
休館日  月曜日(祝日の場合は翌日)12月29日~1月3日
所在地  宮崎県児湯郡木城町大字石河内1246番地14
電  話  0983-39-1990
交  通  宮崎市内から車で約1時間10分
       木城町役場から車で約20分
       木城えほんの郷から車で5分


小丸川発電所展示館「ピノッQパーク」の展示内容等について

小丸川発電所展示館ピノッQパークチラシ




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  1. 2008/07/21(月) 22:46:56|
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児湯郡木城町 高城城跡

宮崎県児湯郡木城町の高城城跡(たかじょうじょうせき)にやって来ました。

hiroの部屋 児湯郡木城町 高城城跡

高城城跡(町指定文化財)
高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟まれ、標高60mを数えます。
地形は、舌状に細長く伸び台地であり、見晴らしには大変優れた所に営まれた山城であります。
この城でふは、天正6年(1578年)、天正15年(1587年)の2度に渡り、大合戦がありました。その当時、日向で勢力を誇っていた伊東氏が島津氏に負けて大分に逃げ、親類の大友氏を頼ります。大友氏はこの際、新興勢力の島津氏をつぶそうと、約5万の大軍でこの城を攻撃しました。しかし高城城主山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友軍は大敗しました。これを高城川合戦と呼んでいます。この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟、秀長率いる15万人の大軍と合戦することになりますが、この時も新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。
これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。またこの高城は、のそ2度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。

hiroの部屋 児湯郡木城町 高城城跡

城としての特徴は、現在、城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭と考えられる曲輪(くるわ)と考えられています。ここでは島津氏の家臣であった城主、山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。またこの城に敵が侵入するのを防ぐために、7箇所の竪堀(たてぼり)がみられるのが特徴です。当時の山城にはこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰り広げております。
平成4年には、木城町の城山公園整備事業によるメロディー時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列、などの遺構、土師器(はじき)と言われる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当し、当時の戦いの状況がより理解することができます。
平成15年2月10日
木城町教育委員会


左奥に見えるのは、建設中の東九州自動車道です。

DSC00284.jpg

ここが戦場とは知りませんでした。



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武者小路実篤 日向新しき村

宮崎県木城町の石河内地区にある「日向新しき村」にやって来ました。

大正7(1918)年、武者小路実篤は人間が人間らしく生きるための理想郷を追い求め日向新しき村を作った。
昭和13(1938)年、ダム建設のため農地が水没することになり、埼玉県毛呂山町へ移転し、残った農地を日向新しき村として存続した。

正面に見えるのが、「日向新しき村」です。

地区の外れの中八重橋を渡り、急な上り下りの坂を走っていくと、「日向新しき村」に着きます。
途中の道は、舗装はされていますが、車の離合は出来ません。また坂が急なので、事故を起こさないように注意が必要です。

hiroの部屋 日向新しき村


尾根を走る、細い道を下りて行くと、村の入り口にある石碑に辿り着きます。
山桜は散っていました。

hiroの部屋 日向新しき村


武者小路実篤旧居を復元した記念館です。

hiroの部屋 日向新しき村


まだ、新しいですね。

hiroの部屋 日向新しき村


記念館内部
料金は無料です。

hiroの部屋 日向新しき村


「歴史」
武者小路実篤とその同志により、理想郷を目指して1918年(大正7年)宮崎県児湯郡木城町に開村された。
1938年(昭和13年)にダムの建設により農地が水没することになったため、1939年(昭和14年)に一部が現在の位置(「東の村」)に移転し、残りは日向新しき村(ひゅうがあたらしきむら)として存続した。
第二次世界大戦終了時には1世帯のみとなっていたが、入村者が増え、1948年(昭和23年)に財団法人の認可を受け、1958年(昭和33年)にはついに自活できるようになった。
2006年現在の村内生活者数は23人。村外会員は約200人ほど。近年、村内の高齢化が進み、農業収入の低迷もあり、村の運営に困難が増しているのが実情である。
この村はただ生活するためのものではなく、精神に基いた世界を築く目的で開村されている。現在は農業を主としている。


「新しき村の精神」
一、全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする。
一、その為に、自己を生かす為に他人の自我を害してはいけない。
一、その為に自己を正しく生かすようにする。自分の快楽,幸福、自由の為に、他人の天命と正しき要求を害してはいけない。
一、全世界の人間が我らと同一の精神を持ち、同一の生活方法をとることで、全世界の人間が同じく義務を果たせ、自由を楽しみ、正しく生きられ、天命(個性をふくむ)を全うすることが出来る道を歩くように心がける。
一、かくの如き生活をしようとするもの、かくの如き生活の可能を信じ、それを全世界の人が実行することを祈るもの、又は切に望む者、それは新しき村の会員である。我等の兄弟姉妹である。
一、されば我等は国と国との争い、階級と階級との争いをせずに、正しき生活にすべての人が入ることによって、入ろうとすることによって、それ等の人が本当に協力することによって、我等の欲する世界が来ることを信じ、又その為に骨折るものである。



「武者小路実篤」
現在の東京都千代田区に江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家に子爵・武者小路実世の第8子として生まれた。2歳の時に父親が死去。子供時代は作文が苦手であった。
学習院初等科、中等学科、高等学科を経て、1906年に東京帝国大学哲学科に入学。1907年、学習院の時代から同級生であった志賀直哉や木下利玄らと「一四日会」を組織する。同年、東大を中退。1908年、回覧雑誌「望野」を創刊。1910年には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。これに因んで白樺派と呼ばれる。トルストイに傾倒した。また、白樺派の思想的な支柱であった。
理想的な調和社会・階級闘争の無い世界(ユートピア)の実現を目指して、1918年に宮崎県児湯郡木城町に「新しき村」を建設したが、1938年にダム建設により村の大半が水没したため、1939年に埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した。両村は現存する(村民になるには年齢は原則として40歳以下の年齢制限がある)。但し、実篤は1924年に離村し、村外会員(村に居住せず会費を納める)となり、“村民”であったのは僅か6年である。
「新しき村」のHPなどでは、実篤が村外会員になり文筆活動をした事を好意的に受け止めており、村民活動が離村後の執筆に多大な影響を及ぼしたとされ、明確には表現されていないが、第三者的に見れば「象徴」「広告塔」的役割を、結果的に今でも担っている感がある。
1946年には貴族院議員に就任。1951年に文化勲章受章。
実篤は、白樺派の思想代名詞的存在であり、理想主義・空想社会主義的行動(前述の村建設など)が現実離れしているとして揶揄の対象とする人もいた。また、上流階級の子弟にありがちな気紛れで無責任とも取れる言動(自ら提唱した新しき村を僅か6年で離村している)も批判された事もある。一般的には、確固たる思想的裏付けが無く、近視眼的な理想主義・現実離れな言動で、軽率であるとの懐疑的な見方が多い。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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  1. 2008/03/29(土) 22:18:05|
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