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★hiroの部屋★

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韓国岳

今週は、お天気良くありませんでした。
今日も雨予報です。
韓国岳に雲がかかっています。

韓国岳
hiroの部屋 韓国岳


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  1. 2019/08/31(土) 18:08:35|
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願いが叶うクルスの海 宮崎県日向市細島

 宮崎県日向市細島に「願いが叶うクルスの海」があります。

願いが叶うクルスの海 宮崎県日向市細島
hiroの部屋 願いが叶うクルスの海 宮崎県日向市細島

 地元では、昔から特徴的な海岸の景観から「十文字」と呼ばれていましたが、観光資源の開発に伴い、ポルトガル語で「十字」を意味する「クルス」に「海」を加えた「クルスの海」という名称をつけられました。
 その後、海岸と岩礁が「叶」という漢字に見えることから、観光地として「願いが叶うクルスの海」という名前が正式に制定されました。

願いが叶うクルスの海 宮崎県日向市細島
hiroの部屋 願いが叶うクルスの海 宮崎県日向市細島

展望所には訪れた方の心を清め、願いや希望を天に託すため、その象徴として「願いが叶うクルスの鐘」があります。

願いが叶うクルスの海 宮崎県日向市細島
hiroの部屋 願いが叶うクルスの海 宮崎県日向市細島


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  1. 2019/07/28(日) 10:46:32|
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都井岬の御崎馬 宮崎県串間市

都井岬にやって来ました。
駒止の門で御崎馬の保護管理協力金400円を支払って、日南海岸国定公園都井岬へ。

車で走っていると、山の上に馬の姿が見えます。

都井岬の御崎馬 宮崎県串間市
hiroの部屋 都井岬の御崎馬 宮崎県串間市

駐車場へ車を停め、馬のいる「小松ヶ丘」へ登ってみました。

今日のお天気は快晴で、心地よい風が吹いていて、坂を登って来たのに汗が出ていません。
眼下には、都井漁港が見えます。

御崎馬は牧場開設当初から、ほとんど人手を加えない状態で放牧されています。
そのため御崎馬は、今も岬にあるものだけを食べて暮らし、繁殖を続ける、貴重な生態を保ち続けています。

都井岬の御崎馬 宮崎県串間市
hiroの部屋 都井岬の御崎馬 宮崎県串間市

御崎馬は、長野県の木曽馬や北海道の道産子などとともに日本在来馬と言われ、縄文時代後期から弥生時代中期にかけて、中国大陸から導入されたモンゴルの野生馬「モウコノウマ(蒙古野馬」が起源とされています。

御崎馬は小柄で、胴が短く、首が太く、全体にずんぐりした印象です。
体高約130cm、体重約300kg

都井岬の御崎馬 宮崎県串間市
hiroの部屋 都井岬の御崎馬 宮崎県串間市

春駒(子馬)がお昼寝しています。
気持ちよさそうですね。

春駒は本格的に草を食べ始める前に、母親の排泄した糞を食べます。
これは糞に含まれている消化に必要なバクテリア(腸内細菌)を摂取するためです。

保護対策協会の監視員のお話しでは、今年春駒が20頭程生まれましたが、現在は12頭だそうです。
残りは亡くなったそうです。
母馬が足を骨折し動けなくなったために、春駒が亡くなったとの話しもありました。
その体は、カラスが整理するそうです。
自然界は厳しいですね。

保護対策協会の監視員2人が、監視と記録のために御崎馬を見守っています。
餌は与えず、病気や怪我の手当てをすることも無いそうです。

都井岬の御崎馬 宮崎県串間市
hiroの部屋 都井岬の御崎馬 宮崎県串間市

御崎馬は普段数等群れで生活しています。
これは雄馬1頭(種雄馬)に数頭の雌馬、その子馬という家族群で「ハーレム」と呼ばれています。

都井岬の御崎馬 宮崎県串間市
hiroの部屋 都井岬の御崎馬 宮崎県串間市

お昼寝していた春駒(子馬)が目を覚まし、お食事の時間になりました。

都井岬の御崎馬 宮崎県串間市
hiroの部屋 都井岬の御崎馬 宮崎県串間市

青く澄みきった空、心地よい潮風、時間がゆっくり流れています。
ちょっと山に登れば、すぐそばで御崎馬を見る事ができます。
宮崎においでの際は、都井岬まで足を延ばしてはいかがでしょうか。


【御崎馬(みさきうま)】
 哺乳網奇蹄目ウマ科。岬馬とも呼ばれています。
 江戸時代前期の元禄10年(1697年)、高鍋藩の秋月家が軍事に欠かせない馬の放牧を、福島地方(現在の串間市)を中心に7カ所設置された藩営牧場の1つ都井村御崎牧(現在の御崎牧場)で始めたのが始まりとされています。
 明治維新後の明治7年(1874年)、御崎牧場は組合員155名からなる御崎組合の共有牧場として払い下げられました。
 明治30年(1897年)に明治政府は種牡馬検査法を公布しました。その後、国策として内国産馬の体格を向上させるために洋種馬の血統を導入する計画を実施しました。
 御崎馬も国策としての内国産馬改良事業から完全に逃れることはできず、都井岬には大正2年(1913年)に父がスタンダードブレッド、母が北海道和種と南部馬の雑種の北海道産牡馬である小松号が導入され、種馬として1年間供用され数頭の牝馬が種付けされました。
 小松号の特徴は、栗毛、流星、珠目正、鼻白、右後一白でした。それ以来、御崎馬には栗毛や白持ちで大柄の馬も出るようになりました。しかし、小松号の影響は限られたものにとどまり、御崎馬は純粋度の高い馬群を維持する数少ない日本在来馬として残りました。
 御崎馬は第二次世界大戦中から戦後にかけて数が減少し、農業の機械化にともない農耕馬としての需要も見込めなくなりました。
 しかし、昭和28年(1953年)に「岬馬およびその繁殖地」が国の天然記念物に指定され、昭和42年(1967年)と昭和43年(1968年)に発足した都井岬馬保護対策協議会と都井岬馬保護対策協力会が御崎牧場に協力、援助する体制ができました。
 さらに、昭和49年(1974年)からは国、宮崎県、串間市の補助事業として保護策がとられ、御崎馬の頭数は次第に増加傾向に転じました。近年は120頭前後で安定し、半野生状態を維持された希少な日本在来馬として宮崎県の重要な観光資源となっています。

【特徴】
 体長・体高ともに130cm内外で、毛色は主に鹿毛と青毛で、栗毛は極めて少なく、背中に鰻線のあるものが多く見られます。

【生態】
 春から夏はノシバやチガヤの豊富な小松ヶ丘や扇山の草地で、種雄馬(しゅゆうば)を中心に数頭の雌馬と子馬で構成された群(ハーレム)を作って過ごします。
 秋から冬は小さな群に分かれて海岸よりの杉林や雑木林に移動して、ススキやシダあるいはタブノキやアカメガシワなどの茎葉を食べて過ごします。

【春駒(子馬)】

 御崎馬の出産のシーズンは 3月~8月で、4・5月に最も多く生まれます。



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  1. 2019/06/16(日) 14:21:07|
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山内自治公民館前のかかし 宮崎県えびの市

えびの市を「田の神さぁ」撮影で回っていると、道端にかかしが。
久しぶりに、かかしを見ます。坂元棚田で見たのが最後かな。

山内自治公民館前のかかし 宮崎県えびの市
hiroの部屋 山内自治公民館前のかかし 宮崎県えびの市

きれいなお姉さんかかしですね。

山内自治公民館前のかかし 宮崎県えびの市
hiroの部屋 山内自治公民館前のかかし 宮崎県えびの市

お天気が良ければなあ~

山内自治公民館前のかかし 宮崎県えびの市
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  1. 2018/10/14(日) 12:27:59|
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道の駅酒谷で蜂蜜を 日南市酒谷

久々に「道の駅酒谷」にやって来ました。
店内をうろうろ。
栗が出ていたので一袋購入。
お店の外で、蜂蜜を打っています。
瓶詰の蜂蜜と・・・
え!蜂の巣を売っています。
試食すると、美味しい。懐かしい味です。全部食べれます。
で、即購入。1,000円でした。

道の駅酒谷で蜂蜜を 日南市酒谷
hiroの部屋 道の駅酒谷で蜂蜜を 日南市酒谷

スプーンですくっていただきます。

道の駅酒谷で蜂蜜を 日南市酒谷酒
hiroの部屋 道の駅酒谷で蜂蜜を 日南市酒谷

昔は、丸太をくりぬき、蜂の巣(家)を作っていましたね。
今は、見かける事が無いですね。


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  1. 2018/10/07(日) 14:05:04|
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堀切峠 道の駅フェニックス 宮崎市内海

  「道の駅フェニックス」は、県道220号線から県道377号線に入り、「堀切峠」から南へ約1kmの所にあります。

堀切峠 道の駅フェニックス 宮崎市内海
hiroの部屋 堀切峠 道の駅フェニックス 宮崎市内海

 海側の展望デッキから、太平洋が一望でき最高です。

堀切峠 道の駅フェニックス 宮崎市内海
hiroの部屋 堀切峠 道の駅フェニックス 宮崎市内海

 人気のソフトクリーム(みやざきマンゴー、プレミアム日向夏、明日葉(あしたば)、えび、ミルク)があります。

堀切峠 道の駅フェニックス 宮崎市内海
hiroの部屋 堀切峠 道の駅フェニックス 宮崎市内海

 2階には、「レストラン堀切」があります。
 3階は「展望フロア」になっています。
 東京読売巨人軍の宮崎キャンプの写真等が展示されていました。
 長嶋さん、最高です。若い頃の写真が展示されています。

堀切峠 道の駅フェニックス 宮崎市内海
hiroの部屋 堀切峠 道の駅フェニックス 宮崎市内海

 青島に、公道を走れるカートをレンタルしているお店があります。
 カートでどこまで走れるのでしょうか?
 1時間3,000円だそうです。

堀切峠 道の駅フェニックス 宮崎市内海
hiroの部屋 堀切峠 道の駅フェニックス 宮崎市内海


堀切峠 道の駅フェニックス 宮崎市内海
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  1. 2018/10/07(日) 13:08:40|
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春の雛人形めぐり 飫肥城下町武家屋敷通 日南市

飫肥城下町で春の雛人形めぐりが行われています。

春の雛人形めぐり 飫肥城下町武家屋敷通 日南市
hiroの部屋 春の雛人形めぐり 飫肥城下町武家屋敷通 日南市


春の雛人形めぐり 飫肥城下町武家屋敷通 日南市
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春の雛人形めぐり 飫肥城下町武家屋敷通 日南市
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春の雛人形めぐり 飫肥城下町武家屋敷通 日南市
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春の雛人形めぐり 飫肥城下町武家屋敷通 日南市
hiroの部屋 春の雛人形めぐり 飫肥城下町武家屋敷通 日南市

飫肥藩(おびはん)は現在の宮崎県日南市周辺にあって、日向国那珂郡のある南部を支配した藩。藩庁は飫肥城。藩主は伊東氏。家格は外様大名である。
 伊東氏は鎌倉時代に日向国の地頭に任じられ、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡300町を宛がわれて下向した事に始まる戦国大名である。一時は島津氏との争いに敗れ日向を追われるが、豊臣秀吉の九州征伐に付き従った当時の伊東家当主祐兵が、戦功によって飫肥の地を得て大名となった。
 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは祐兵が大阪で病を得ていた為、成り行きで西軍につくものの、密かに黒田如水を通じて東軍に味方をし、嫡男祐慶を下向させて宮崎城を攻撃。事なきを得た。元和3年(1617年)2代将軍徳川秀忠より5万7千石の所領安堵の朱印状を受けた。
 3代祐久は寛永13年(1636年)弟の祐豊に3千石を分与。4代祐由は明暦3年(1657年)弟の祐春に3千石を分与し、以後、石高は5万1千石となった。
 領内は耕地が少なく、山林と海浜に囲まれていた。温暖で湿潤な気候を利用し杉・檜などの林業を発展させ、今日でも「飫肥杉」はこの地の特産として残っている。また、同時に漁業も藩財政の一翼を担った。
 11代祐民の享和元年(1801年)学問所を設け、これが天保元年(1830年)藩校振徳堂となった。
 幕末の飫肥藩は極度の財政難に陥り、嘉永4年(1851年)には藩士の家禄を1/3に減じ、更に安政4年(1857年)には倹約令を出すほどだった。
 明治4年(1871年)廃藩置県により飫肥県となった。後、都城県、宮崎県、鹿児島県を経て宮崎県に編入された。
 明治17年(1884年)伊東家は子爵となり華族に列した。
 なお、明治時代、外務大臣となりポーツマス条約締結を行った小村寿太郎は当藩士出身である。



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  1. 2018/02/18(日) 14:30:47|
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飫肥城下町 日南市

飫肥城下町を散策です。
四半的
 宮崎県日南市飫肥付近を中心に伝わる独自の弓術。日南市無形民俗文化財指定。
 的までの距離が四間半(約8.2m)、矢の長さが四尺半(約1.36m)、的の大きさが四寸半(約13.6cm)ある事から「四半的」の名があります。

飫肥城下町 日南市
hiroの部屋 飫肥城下町 日南市

 飫肥では娯楽として親しまれており、飫肥城跡や家に射場があるほか、人々(男女は問わない)が「練習」として公民館等に集まり、焼酎を飲みながら四半的に興じる習慣があり、人々のコミュニケーションツールとしても機能しています。

飫肥城下町 日南市
hiroの部屋 飫肥城下町 日南市

飫肥天
 飫肥天(おびてん)とは、宮崎県日南市飫肥地区の郷土料理で、魚肉練り製品。揚げかまぼこに分類されます。
 おび天とも書かれ、こちらは元祖おび天本舗の登録商標となっています。
 紅ショウガ、ゴボウなど、色々な種類が売られています。

 こちらは、「おび天蔵」

飫肥城下町 日南市
hiroの部屋 飫肥城下町 日南市

 こちらは「おび天茶屋」
 「おび天本舗」は、ここから少し歩いた所の432号線沿いにあります。

飫肥城下町 日南市
hiroの部屋 飫肥城下町 日南市

桜が咲いています。

飫肥城下町 日南市
hiroの部屋 飫肥城下町 日南市


飫肥城下町 日南市
hiroの部屋 飫肥城下町 日南市

飫肥城の看板犬「姫ちゃん」
飫肥城の大手門の入り口にいる、飫肥城の看板犬「姫ちゃん」の帰り道に遭遇。
写真を撮影させていただきました。

飫肥城下町 日南市
hiroの部屋 飫肥城下町 日南市

飫肥藩(おびはん)は現在の宮崎県日南市周辺にあって、日向国那珂郡のある南部を支配した藩。藩庁は飫肥城。藩主は伊東氏。家格は外様大名である。
 伊東氏は鎌倉時代に日向国の地頭に任じられ、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡300町を宛がわれて下向した事に始まる戦国大名である。一時は島津氏との争いに敗れ日向を追われるが、豊臣秀吉の九州征伐に付き従った当時の伊東家当主祐兵が、戦功によって飫肥の地を得て大名となった。
 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは祐兵が大阪で病を得ていた為、成り行きで西軍につくものの、密かに黒田如水を通じて東軍に味方をし、嫡男祐慶を下向させて宮崎城を攻撃。事なきを得た。元和3年(1617年)2代将軍徳川秀忠より5万7千石の所領安堵の朱印状を受けた。
 3代祐久は寛永13年(1636年)弟の祐豊に3千石を分与。4代祐由は明暦3年(1657年)弟の祐春に3千石を分与し、以後、石高は5万1千石となった。
 領内は耕地が少なく、山林と海浜に囲まれていた。温暖で湿潤な気候を利用し杉・檜などの林業を発展させ、今日でも「飫肥杉」はこの地の特産として残っている。また、同時に漁業も藩財政の一翼を担った。
 11代祐民の享和元年(1801年)学問所を設け、これが天保元年(1830年)藩校振徳堂となった。
 幕末の飫肥藩は極度の財政難に陥り、嘉永4年(1851年)には藩士の家禄を1/3に減じ、更に安政4年(1857年)には倹約令を出すほどだった。
 明治4年(1871年)廃藩置県により飫肥県となった。後、都城県、宮崎県、鹿児島県を経て宮崎県に編入された。
 明治17年(1884年)伊東家は子爵となり華族に列した。
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  1. 2018/02/18(日) 14:27:58|
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旧藩校振徳堂(しんとくどう) 日南市飫肥

旧藩校振徳堂(しんとくどう)
 天保2年(1831年)飫肥藩13台祐相公により開港され、孟子の教えにあたる「又従而振徳之」から振徳堂と名づけられました。
 教授には安井滄州、息軒親子を招き、藩士の子弟の教育に努めました。
 小倉処平、小村寿太郎も振徳堂で学びました。

旧藩校振徳堂(しんとくどう) 日南市飫肥
hiroの部屋 旧藩校振徳堂(しんとくどう) 日南市飫肥


 藩校の敷地の外回りには高さ3mを超える切り石の石垣が積まれ、南向きの入口は長屋門を構えています。
 1,468坪の敷地内には、教室となった素読の間、講釈の間などの主屋、剣術場や槍術場、居寮など延べ273坪の施設がありました。

旧藩校振徳堂(しんとくどう) 日南市飫肥
hiroの部屋 旧藩校振徳堂(しんとくどう) 日南市飫肥


 飫肥藩では中小姓以上の藩士の子弟は必ず入校しなければならない規定で、徒歩格以下は任意で入校できました。
 また藩士以外でも希望するものは入学を許されましたが、町人や農民はおもに習字・算術を一般の家塾で学んでいました。

旧藩校振徳堂(しんとくどう)  小村寿太郎 日南市飫肥
hiroの部屋 旧藩校振徳堂(しんとくどう)  小村寿太郎 日南市飫肥

飫肥藩(おびはん)は現在の宮崎県日南市周辺にあって、日向国那珂郡のある南部を支配した藩。藩庁は飫肥城。藩主は伊東氏。家格は外様大名である。
 伊東氏は鎌倉時代に日向国の地頭に任じられ、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡300町を宛がわれて下向した事に始まる戦国大名である。一時は島津氏との争いに敗れ日向を追われるが、豊臣秀吉の九州征伐に付き従った当時の伊東家当主祐兵が、戦功によって飫肥の地を得て大名となった。
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 領内は耕地が少なく、山林と海浜に囲まれていた。温暖で湿潤な気候を利用し杉・檜などの林業を発展させ、今日でも「飫肥杉」はこの地の特産として残っている。また、同時に漁業も藩財政の一翼を担った。
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 なお、明治時代、外務大臣となりポーツマス条約締結を行った小村寿太郎は当藩士出身である。



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春呼ぶ「野焼き」 宮崎市阿波岐原町

春呼ぶ「野焼き」 宮崎市阿波岐原町で、春呼ぶ「野焼き」 が行われました。
強い風が吹くと、凄い炎になります。

春呼ぶ「野焼き」 宮崎市阿波岐原町
hiroの部屋 春呼ぶ「野焼き」 宮崎市阿波岐原町


春呼ぶ「野焼き」 宮崎市阿波岐原町
hiroの部屋 春呼ぶ「野焼き」 宮崎市阿波岐原町

市民の森は、野焼きの煙で霞んでいます。

春呼ぶ「野焼き」 宮崎市阿波岐原町
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  1. 2017/02/12(日) 15:42:26|
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