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旧藩校振徳堂(しんとくどう) 日南市飫肥

旧藩校振徳堂(しんとくどう)
 天保2年(1831年)飫肥藩13台祐相公により開港され、孟子の教えにあたる「又従而振徳之」から振徳堂と名づけられました。
 教授には安井滄州、息軒親子を招き、藩士の子弟の教育に努めました。
 小倉処平、小村寿太郎も振徳堂で学びました。

旧藩校振徳堂(しんとくどう) 日南市飫肥
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 藩校の敷地の外回りには高さ3mを超える切り石の石垣が積まれ、南向きの入口は長屋門を構えています。
 1,468坪の敷地内には、教室となった素読の間、講釈の間などの主屋、剣術場や槍術場、居寮など延べ273坪の施設がありました。

旧藩校振徳堂(しんとくどう) 日南市飫肥
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 飫肥藩では中小姓以上の藩士の子弟は必ず入校しなければならない規定で、徒歩格以下は任意で入校できました。
 また藩士以外でも希望するものは入学を許されましたが、町人や農民はおもに習字・算術を一般の家塾で学んでいました。

旧藩校振徳堂(しんとくどう)  小村寿太郎 日南市飫肥
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飫肥藩(おびはん)は現在の宮崎県日南市周辺にあって、日向国那珂郡のある南部を支配した藩。藩庁は飫肥城。藩主は伊東氏。家格は外様大名である。
 伊東氏は鎌倉時代に日向国の地頭に任じられ、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡300町を宛がわれて下向した事に始まる戦国大名である。一時は島津氏との争いに敗れ日向を追われるが、豊臣秀吉の九州征伐に付き従った当時の伊東家当主祐兵が、戦功によって飫肥の地を得て大名となった。
 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは祐兵が大阪で病を得ていた為、成り行きで西軍につくものの、密かに黒田如水を通じて東軍に味方をし、嫡男祐慶を下向させて宮崎城を攻撃。事なきを得た。元和3年(1617年)2代将軍徳川秀忠より5万7千石の所領安堵の朱印状を受けた。
 3代祐久は寛永13年(1636年)弟の祐豊に3千石を分与。4代祐由は明暦3年(1657年)弟の祐春に3千石を分与し、以後、石高は5万1千石となった。
 領内は耕地が少なく、山林と海浜に囲まれていた。温暖で湿潤な気候を利用し杉・檜などの林業を発展させ、今日でも「飫肥杉」はこの地の特産として残っている。また、同時に漁業も藩財政の一翼を担った。
 11代祐民の享和元年(1801年)学問所を設け、これが天保元年(1830年)藩校振徳堂となった。
 幕末の飫肥藩は極度の財政難に陥り、嘉永4年(1851年)には藩士の家禄を1/3に減じ、更に安政4年(1857年)には倹約令を出すほどだった。
 明治4年(1871年)廃藩置県により飫肥県となった。後、都城県、宮崎県、鹿児島県を経て宮崎県に編入された。
 明治17年(1884年)伊東家は子爵となり華族に列した。
 なお、明治時代、外務大臣となりポーツマス条約締結を行った小村寿太郎は当藩士出身である。



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  1. 2018/02/18(日) 14:09:39|
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