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鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町

 大慈寺(だいじじ)は、鹿児島県志布志市志布志町志布志二丁目にある臨済宗の寺です。
 山号は龍興山。
 当初は東福寺の末寺でしたが、後に妙心寺の末寺に転じました。

鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町
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鹿児島県指定有形文化財 昭和28年9月7日指定 【左側】
仁王像一軀(におうぞういっく) 〈密迹金剛立像(みつしゃくこんごうりゅうぞう)〉
 この仁王像は口を開いた阿形相(あぎょうそう)を示す像で「密迹金剛(みつしゃくこんごう)」といわれるものです。
 シラス台地に覆われた南九州では、溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)製の石造物が多く見られますが、中でもこの豪快で気魄あふれる大慈寺のものは、石造彫刻の仁王像として唯一、県の指定文化財となっています。
 この像は、明治2年(1869年)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で破棄され土中に埋もれていたものですが、明治12年(1879年)の大慈寺再興に伴って土中から掘り得た一体です。
 対であった他の一体(吽形相(うんぎょうそう)の「那羅延金剛(ならえんこんごう)」はどうしても探り得なかったため、同じく廃寺となった福寿山海徳(かいとく)寺(時衆宗(じしゅうしゅう))の仁王像を据えて対としたものです。
 背面には「住山定岩叟(じょうがんそう) 天和(てんわ)二壬戌(みずのえいぬ)(1682年)歳六月十二日 石工 藤田次郎右衛門 寄進 山下弥三左衛門尉盛明」と記されています。
 右側の旧海徳寺仁王像にも「貞享(じょうきょう)元甲子(きのえね)(1684年)九月十五日住山覚誉(かくよ)」と記され、作者も寄進者も同じです。

 仁王像は金剛神(こんごうしん)や金剛力士(こんごうりきし)とも呼ばれる寺院伽藍(がらん)の守護神であり、山門または須弥壇(しゅみだん)(寺院の仏殿で仏像を安置する壇)の全面左右に安置される一対の半裸形の像です。
 一般的には、口を開いた「阿(あ)」の像を右に置き那羅延金剛(ならえんこんごう)、口を閉じた「吽(うん)」の像を左に置き密迹金剛(みっしゃくこんごう)と呼びますが、ここでは東大寺と同様に仁王像の安置場所が左右逆になっています。また阿吽は一対として万物の始まりと終わりを意味しています。
 これは寺院の仁王像に限らず神社の狛犬(こまいぬ)などでも阿吽の像が対で表現されています。
 山門の仁王像は、全国的には木造彫刻が多いことから仁王門(におうもん)の中に安置されますが、南九州では石造彫刻が多く仁王像は屋外に建っていることが一般的です。
 市内でも多くの石造仁王像が見られますが、その大半は明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって被害を受け、廃寺跡やその周辺に不完全な姿で残されています。
 大慈寺の仁王像も、廃仏毀釈以前の寺の様子が描かれた「三国名勝図絵(さんごうめいしょうずえ)」によると、本来の大慈寺の正門前(現小西公園付近)に対で建っていたことが分かります。


鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町
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 興国元年(暦応3年、1340年)に、南朝方武将であった楡井頼仲(にれい よりなか)によって玉山玄提(ぎょくざんげんてい)を開山として建立されました。

楡井 頼仲(にれい よりなか)
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。
 楡井氏は清和天皇系信濃源氏の末裔で、信濃国高井郡楡井邑(現在の長野県須坂市付近)の出身と伝えられています。
 南朝方の武将として日向国から大隅国にかけて一時期活躍し、志布志城(志布志城は、内城、松尾城、高城、新城の四つで構成されています。)、大姶良城、加瀬田城を領有しました。
 正平6年(1351年)3月、楡井頼仲と南九州の南朝勢力の一掃の為に北朝方より派遣された畠山直顕は大規模な戦いを起し、8月に志布志城(松尾城)は陥落し、畠山直顕の領有となりました。
 敗れた楡井頼仲は同じ南朝方の肝付氏の高山に落ち延び許しを得て、弓張城(肝属郡肝付町)に居を構えました。
 その後、楡井頼仲は正平12年(1357年)迄数回、志布志城(松尾城)や大崎胡麻ケ崎城を奪おうとしましたが、最後には敗れ、正平12年(1357年)2月5日自身が創建した大慈寺宝池庵で自害しました。
 翌1358年に、九州の南朝方トップだった菊池武光が日向に遠征し畠山直顕を打ち破ると、大慈寺の楡井頼仲の墓を詣り、孤軍奮闘を讃え、「禁制大慈寺濫妨狼藉事」という禁札を出しています。

畠山 直顕(はたけやま ただあき)
 南北朝時代の武将です。
 室町幕府領保全のため日向に下向して南九州の鎮定に当たった人物です。
 延文2年(1357年)、志布志城の合戦で島津氏久(貞久の子)に敗れます。
 正平13年/延文3年(1358年)11月に、懐良親王を推戴する菊池武光の遠征軍に大敗します。

菊池 武光(きくち たけみつ)
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。菊池氏第15代当主です。
 正平13年/延文3年(1358年)11月に、日向国の畠山直顕を破り、ついに九州の足利氏勢力をほぼ一掃しました。


鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町
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 その後、光明天皇から勅を賜り「龍興山大慈廣慧禅寺」と称し、文安元年(1444年)には、「臨済宗十刹」と日本で10本の指の中に入る屈指の禅宗寺院となりました。
 当時の志布志は日明貿易(勘合貿易)の拠点として栄えており、諸史料から大慈寺もその貿易に関与していたと考えられます。

日明貿易(にちみんぼうえき)
 室町時代に日本とが明朝と行った貿易です。


鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町
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 江戸時代になってからは藩主島津氏の庇護を受けていましたが、明治2年(1869年)の廃仏毀釈により廃寺となりました。
 しかし、明治12年(1879年)には早くも復興を果たし、現在に至っています。

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
 仏教を廃すること。「廃仏」は仏法を廃し、「毀釈」は釈迦(仏教の開祖)の教えを棄却するという意味です。
 明治初期には文明開化・四民平等政策・国民負担軽減策に当たる神仏分離令の影響も受けて、近世の仏教国教化政策に反発していた平田派国学者や神官らが中心となって一連の廃仏の民衆運動が発生しました。


鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町
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南朝忠臣・志布志城主・大慈寺開基
楡井頼仲公の墓
 楡井遠江守頼仲(にれいとおとうみのかみよりなか)は、信州楡村(にれむら)の出身で信濃源氏(しなのげんじ)の末裔とされています。
 この地方で最初に楡井氏の名が現れるのは、建武3年(1336年)のことです。
 南北朝時代、大隅・日向地方では南朝(宮)方の肝付兼重が勢力を誇っていましたが、北朝(武家)方の畠山直顕(はたけやまただあき)の侵攻が激しく、次第に敗勢となっていました。
 在地勢力として急速に興隆していた楡井頼仲は、征西将軍宮懐良(かねとし)親王の入薩(13342年)を機に南朝方武将としての性格を明確にし、肝付氏に代って大隅で勢力を拡大しました。
 頼仲は、興国元年(1340年)肝属郡にあった帝釈寺(たいしゃくじ)を志布志に移し、開山に同郷の高僧玉山玄提(ぎょくさんげんてい)和尚を招いて大慈寺を開基しました。
 志布志城主として玉山和尚に深く帰依し、二世剛中玄柔(ごうちゅうげんじゅう)の住持についても招請しています。
 正平12年(1357年)2月5日、畠山軍の攻撃で志布志城(松尾城)を落とされた頼仲は、大慈寺宝池庵に入って自刃しております。
 享年57歳。
 法名・大用玄仲大禅定門。
 偈頌(げじゅ)「大事因縁 57年 遊戯自在 剣樹刀山」
 辞世「こしかたもまた行末も 此年の此月のけふ只今にあり」
 1928年(昭和3年)11月10日、正五位を贈位されています。


肝付 兼重(きもつき かねしげ)
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。肝付氏8代当主です。

畠山 直顕(はたけやま ただあき)
 南北朝時代の武将です。
 室町幕府領保全のため日向に下向して南九州の鎮定に当たった人物です。
 延文2年(1357年)、志布志城の合戦で島津氏久(貞久の子)に敗れます。
 正平13年/延文3年(1358年)11月に、懐良親王を推戴する菊池武光の遠征軍に大敗します。

正五位(しょうごい)
 日本の位階及び神階における位のひとつです。
 従四位の下、従五位の上に位します。贈位の場合、贈正五位といいます。


南朝忠臣・志布志城主・大慈寺開基 楡井頼仲公の墓
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  1. 2023/05/22(月) 14:45:50|
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鹿児島の寺 臨済宗相国寺派 鎮国山感応寺 出水市野田町下名

出水の越冬鶴の撮影の時に、県道368号線を走るのですが、肥薩おれんじ鉄道野田郷駅を過ぎた所に、「感応禅寺」の案内板があり、気になっていました。

山門仁王像が立っています。
開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。
寛延4年(1751年)建立されており、出水市の文化財に指定されているそうです。

臨済宗相国寺派 鎮国山感応寺 出水市野田町下名
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右側が、阿形(あぎょう)像ですね。
阿形像は怒りの表情を顕わにしているそうです。

臨済宗相国寺派 鎮国山感応寺 出水市野田町下名
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左側の、吽形(うんぎょう)像です。
吽形像は怒りを内に秘めた表情に表しているそうです。
こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表しているそうです。

臨済宗相国寺派 鎮国山感応寺 出水市野田町下名
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立派な鐘楼ですね。

臨済宗相国寺派 鎮国山感応寺 出水市野田町下名
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子安地蔵尊です。

臨済宗相国寺派 鎮国山感応寺 出水市野田町下名
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右のソテツは、出水市の文化財に指定されています。

臨済宗相国寺派 鎮国山感応寺 出水市野田町下名
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市指定文化財 五廟社(ごびょうしゃ)
 五廟社とは、島津初代忠久から5代貞久までの墓のことで、初代から4代忠宗までは鎌倉時代、5代は南北朝時代初期に建立された。
 この中で初代忠久と二代忠時は鎌倉在勤中に彼の地で没し、鎌倉にも墓があるので、こちらの方は分骨の墓所である。
 薩摩藩26代藩主斉宣が石塔に廟堂を建立したが、現存していない。
 廃仏毀釈の際は法名を神名に変え、明治8年に現在の形となる。
 明治13年に感応寺復興以後、寺で管理している。
 寺では毎年7月17日に六月灯を執り行い、島津5代の慰霊を行なっている。

臨済宗相国寺派 鎮国山感応寺 出水市野田町下名
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向かって左から
 初代 忠久 法名:得仏大禅定門 神号:瑞宝常照彦命
 二代 忠時 法名:道仏大禅定門 神号:剣太刀聡心雄命
 三大 久経 法名:道忍大禅定門 神号:真明履道男命
 四代 忠宗 法名:道義大禅定門 神号:委錦風雅士命
 五代 貞久 法名:道鑑大禅定門 神号:上寿豊福彦命

臨済宗相国寺派 鎮国山感応寺 出水市野田町下名
hiroの部屋 臨済宗相国寺派 鎮国山感応寺 出水市野田町下名

 島津 忠久(しまづ ただひさ)は平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。島津氏の祖。正式には惟宗忠久という。
 島津 忠時(しまづ ただとき)は鎌倉時代前期から中期にかけての武将。島津氏の2代当主。父は初代当主・島津忠久。母は畠山重忠の娘(異説あり)。鎌倉幕府御家人。初名は忠義。のちに忠時に改名する。
 島津 久経(しまづ ひさつね)は鎌倉時代中期の武将。島津氏の第3代当主。鎌倉幕府御家人。第2代当主・島津忠時の嫡男。初名は久時。
 島津 忠宗(しまづ ただむね)は鎌倉時代中期から末期にかけての武将。島津氏の第4代当主。鎌倉幕府御家人。第3代当主・島津久経の嫡男。母は相馬胤綱の娘。
 島津 貞久(しまづ さだひさ)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。島津氏第5代当主。薩摩・大隅・日向の守護大名。島津忠宗の嫡男。領国の在地化を進め、島津氏の守護大名としての基礎を作った。


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  1. 2013/02/24(日) 13:06:26|
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