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古墳を見守る石像群 高鍋大師 宮崎県高鍋町

 宮崎県高鍋町の持田古墳群のある日向灘を望む持田台地の東端に「高鍋大師」があります。
 近くを走る国道10号線からも石像群は良く見えます。
 ここに上って来る道は、南側と東側があります。私は東側の道を使います。
 東側の道沿いに26号墳(山の神塚古墳)、持田古墳群27号墳があります。
 26号墳前の畑にはコスモスが咲いていました。見頃はあと少し先かな?

 駐車場は、高鍋大師手前にある持田古墳群48号墳を左に入った奥にあります。

 高鍋大師と呼ばれる一連の石像群は、近隣にある持田古墳群の霊を慰めるため、町内で米穀店を営んでいた岩岡保吉氏によって作られたものです。
 29歳の時に四国八十八箇所巡礼の旅へ出た岩岡氏は、当時同古墳群での相次ぐ盗掘に心を痛めていたことなどもあって、高鍋にも八十八箇所を建設することを決意し、43歳にて古墳群近くの土地を購入して整地すると、大分県から石工仏師を招聘して彫刻技術を習得しました。
 岩岡氏は八十八箇所仏完成後も彫像にいそしみ、最終的に本人が生涯で刻んだ石像は700体以上にものぼりました。
 その中には6mを超える巨大なものも含まれています。

古墳を見守る石像群 高鍋大師 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 宮崎県高鍋町

 今回は、大きな石像9体を撮影しました。

弘法大師
 左手に「からいも」を持っています。
 昭和三十三年六月十五日 岩岡弘覚サく 年七十才
 からいも:サツマイモのことです。
 70歳から巨像を造り始めるとは凄いですね。

古墳を見守る石像群 高鍋大師 弘法大師 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 弘法大師 宮崎県高鍋町

 巻雲が、石像からパワーが出ている様に見えます。

古墳を見守る石像群 高鍋大師 弘法大師 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 弘法大師 宮崎県高鍋町

正一いいない大神(正一位稲荷大神)
 ちょんまげ頭で、立派なおひげです。
 左手に鎌を持っています。
 右下の石像の胸が大きい・・・女性ですね。

古墳を見守る石像群 高鍋大師 正一いいない大神(正一位稲荷大神) 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 正一いいない大神(正一位稲荷大神) 宮崎県高鍋町

百たいふど(百体不動)
 火よけみまもり

古墳を見守る石像群 高鍋大師 百たいふど(百体不動) 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 百たいふど(百体不動) 宮崎県高鍋町

 不動様の目は透明なガラスですね。
 子供の目は黄色い電球の様ですが、片方割れています。

古墳を見守る石像群 高鍋大師 百たいふど(百体不動) 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 百たいふど(百体不動) 宮崎県高鍋町


古墳を見守る石像群 高鍋大師 百たいふど(百体不動) 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 百たいふど(百体不動) 宮崎県高鍋町

 石像に文字が書かれているのですが、漢字とひらがなとカタカナが入り混じった文字列です。

十一めんくわんのん(十一面観音)
 昭和三十八年十一月七十五才サく
 75歳の作

古墳を見守る石像群 高鍋大師 十一めんくわんのん(十一面観音) 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 十一めんくわんのん(十一面観音) 宮崎県高鍋町

 笑っている顔が良いですね。

古墳を見守る石像群 高鍋大師 十一めんくわんのん(十一面観音) 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 十一めんくわんのん(十一面観音) 宮崎県高鍋町

十二めんやくし(十二面薬師)
 岩岡山七十五才のサく
 ゆう日サん あサ日カガやく
 あくまかぜ をしはらい

古墳を見守る石像群 高鍋大師 十二めんやくし(十二面薬師)宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 十二めんやくし(十二面薬師)宮崎県高鍋町

明治百年 アマテラスオオミカミ(天照大御神)?
 明治百年 むえん こ中 まもれ 昭和四十三年 岩岡弘覚 五月五日 八十才のさく
 後光を表しているのでしょうか?
 丸と四角の穴はガラスが埋められていますね。
 碍子(がいし)が見えます。電気が点いていたのでしょうか?

古墳を見守る石像群 高鍋大師 アマテラスオオミカミ(天照大御神) 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 アマテラスオオミカミ(天照大御神) 宮崎県高鍋町

スサノオノミコト
 太刀を持っています。
 ライオンの様な髪と髭ですね。

古墳を見守る石像群 高鍋大師 スサノオノミコト 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 スサノオノミコト 宮崎県高鍋町


古墳を見守る石像群 高鍋大師 スサノオノミコト 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 スサノオノミコト 宮崎県高鍋町

かみなり(雷神)
 岩岡弘覚八十四サく
 目玉と牙が凄いです。

古墳を見守る石像群 高鍋大師 かみなり(雷神) 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 かみなり(雷神) 宮崎県高鍋町

 84歳で巨像を造るのは凄いパワーですね。

古墳を見守る石像群 高鍋大師 かみなり(雷神) 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 かみなり(雷神) 宮崎県高鍋町

カぜのカみ(風の神・風神)
 昭和四十七年九月吉日
 顔の掘りが深いですね。
 眉毛が太い。

古墳を見守る石像群 高鍋大師 カぜのカみ(風の神・風神) 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 カぜのカみ(風の神・風神) 宮崎県高鍋町

この石像も84歳の時造っています。

古墳を見守る石像群 高鍋大師 カぜのカみ(風の神・風神) 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 カぜのカみ(風の神・風神) 宮崎県高鍋町

 肩に乗っている石板の意味は何だろう?

古墳を見守る石像群 高鍋大師 カぜのカみ(風の神・風神) 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 カぜのカみ(風の神・風神) 宮崎県高鍋町

 カメです。

古墳を見守る石像群 高鍋大師 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 宮崎県高鍋町

 右の大師堂には、色々な資料が納められています。
 奥の建物はトイレです。とても綺麗なトイレです。

古墳を見守る石像群 高鍋大師 宮崎県高鍋町
hiroの部屋 古墳を見守る石像群 高鍋大師 宮崎県高鍋町

 航空自衛隊新田原基地 第305飛行隊 F-15DJの垂直尾翼に、高鍋町、木城町のマスコットキャラクターが描かれています。
 石像「高鍋大師の十一面くわんのん」をモチーフにして作られた、高鍋町のマスコットキャラクター「たか鍋大使くん」です。

新田原エアフェスタ2018 地上展示 第305飛行隊 Mitsubishi F-15DJ Eagle 82-8065
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鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町

 大慈寺(だいじじ)は、鹿児島県志布志市志布志町志布志二丁目にある臨済宗の寺です。
 山号は龍興山。
 当初は東福寺の末寺でしたが、後に妙心寺の末寺に転じました。

鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町
hiroの部屋 鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町

鹿児島県指定有形文化財 昭和28年9月7日指定 【左側】
仁王像一軀(におうぞういっく) 〈密迹金剛立像(みつしゃくこんごうりゅうぞう)〉
 この仁王像は口を開いた阿形相(あぎょうそう)を示す像で「密迹金剛(みつしゃくこんごう)」といわれるものです。
 シラス台地に覆われた南九州では、溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)製の石造物が多く見られますが、中でもこの豪快で気魄あふれる大慈寺のものは、石造彫刻の仁王像として唯一、県の指定文化財となっています。
 この像は、明治2年(1869年)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で破棄され土中に埋もれていたものですが、明治12年(1879年)の大慈寺再興に伴って土中から掘り得た一体です。
 対であった他の一体(吽形相(うんぎょうそう)の「那羅延金剛(ならえんこんごう)」はどうしても探り得なかったため、同じく廃寺となった福寿山海徳(かいとく)寺(時衆宗(じしゅうしゅう))の仁王像を据えて対としたものです。
 背面には「住山定岩叟(じょうがんそう) 天和(てんわ)二壬戌(みずのえいぬ)(1682年)歳六月十二日 石工 藤田次郎右衛門 寄進 山下弥三左衛門尉盛明」と記されています。
 右側の旧海徳寺仁王像にも「貞享(じょうきょう)元甲子(きのえね)(1684年)九月十五日住山覚誉(かくよ)」と記され、作者も寄進者も同じです。

 仁王像は金剛神(こんごうしん)や金剛力士(こんごうりきし)とも呼ばれる寺院伽藍(がらん)の守護神であり、山門または須弥壇(しゅみだん)(寺院の仏殿で仏像を安置する壇)の全面左右に安置される一対の半裸形の像です。
 一般的には、口を開いた「阿(あ)」の像を右に置き那羅延金剛(ならえんこんごう)、口を閉じた「吽(うん)」の像を左に置き密迹金剛(みっしゃくこんごう)と呼びますが、ここでは東大寺と同様に仁王像の安置場所が左右逆になっています。また阿吽は一対として万物の始まりと終わりを意味しています。
 これは寺院の仁王像に限らず神社の狛犬(こまいぬ)などでも阿吽の像が対で表現されています。
 山門の仁王像は、全国的には木造彫刻が多いことから仁王門(におうもん)の中に安置されますが、南九州では石造彫刻が多く仁王像は屋外に建っていることが一般的です。
 市内でも多くの石造仁王像が見られますが、その大半は明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって被害を受け、廃寺跡やその周辺に不完全な姿で残されています。
 大慈寺の仁王像も、廃仏毀釈以前の寺の様子が描かれた「三国名勝図絵(さんごうめいしょうずえ)」によると、本来の大慈寺の正門前(現小西公園付近)に対で建っていたことが分かります。


鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町
hiroの部屋 鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町

 興国元年(暦応3年、1340年)に、南朝方武将であった楡井頼仲(にれい よりなか)によって玉山玄提(ぎょくざんげんてい)を開山として建立されました。

楡井 頼仲(にれい よりなか)
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。
 楡井氏は清和天皇系信濃源氏の末裔で、信濃国高井郡楡井邑(現在の長野県須坂市付近)の出身と伝えられています。
 南朝方の武将として日向国から大隅国にかけて一時期活躍し、志布志城(志布志城は、内城、松尾城、高城、新城の四つで構成されています。)、大姶良城、加瀬田城を領有しました。
 正平6年(1351年)3月、楡井頼仲と南九州の南朝勢力の一掃の為に北朝方より派遣された畠山直顕は大規模な戦いを起し、8月に志布志城(松尾城)は陥落し、畠山直顕の領有となりました。
 敗れた楡井頼仲は同じ南朝方の肝付氏の高山に落ち延び許しを得て、弓張城(肝属郡肝付町)に居を構えました。
 その後、楡井頼仲は正平12年(1357年)迄数回、志布志城(松尾城)や大崎胡麻ケ崎城を奪おうとしましたが、最後には敗れ、正平12年(1357年)2月5日自身が創建した大慈寺宝池庵で自害しました。
 翌1358年に、九州の南朝方トップだった菊池武光が日向に遠征し畠山直顕を打ち破ると、大慈寺の楡井頼仲の墓を詣り、孤軍奮闘を讃え、「禁制大慈寺濫妨狼藉事」という禁札を出しています。

畠山 直顕(はたけやま ただあき)
 南北朝時代の武将です。
 室町幕府領保全のため日向に下向して南九州の鎮定に当たった人物です。
 延文2年(1357年)、志布志城の合戦で島津氏久(貞久の子)に敗れます。
 正平13年/延文3年(1358年)11月に、懐良親王を推戴する菊池武光の遠征軍に大敗します。

菊池 武光(きくち たけみつ)
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。菊池氏第15代当主です。
 正平13年/延文3年(1358年)11月に、日向国の畠山直顕を破り、ついに九州の足利氏勢力をほぼ一掃しました。


鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町
hiroの部屋 鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町

 その後、光明天皇から勅を賜り「龍興山大慈廣慧禅寺」と称し、文安元年(1444年)には、「臨済宗十刹」と日本で10本の指の中に入る屈指の禅宗寺院となりました。
 当時の志布志は日明貿易(勘合貿易)の拠点として栄えており、諸史料から大慈寺もその貿易に関与していたと考えられます。

日明貿易(にちみんぼうえき)
 室町時代に日本とが明朝と行った貿易です。


鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町
hiroの部屋 鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町

 江戸時代になってからは藩主島津氏の庇護を受けていましたが、明治2年(1869年)の廃仏毀釈により廃寺となりました。
 しかし、明治12年(1879年)には早くも復興を果たし、現在に至っています。

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
 仏教を廃すること。「廃仏」は仏法を廃し、「毀釈」は釈迦(仏教の開祖)の教えを棄却するという意味です。
 明治初期には文明開化・四民平等政策・国民負担軽減策に当たる神仏分離令の影響も受けて、近世の仏教国教化政策に反発していた平田派国学者や神官らが中心となって一連の廃仏の民衆運動が発生しました。


鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町
hiroの部屋 鹿児島の寺 室町時代(1340年)創建 大慈寺 志布志市志布志町

南朝忠臣・志布志城主・大慈寺開基
楡井頼仲公の墓
 楡井遠江守頼仲(にれいとおとうみのかみよりなか)は、信州楡村(にれむら)の出身で信濃源氏(しなのげんじ)の末裔とされています。
 この地方で最初に楡井氏の名が現れるのは、建武3年(1336年)のことです。
 南北朝時代、大隅・日向地方では南朝(宮)方の肝付兼重が勢力を誇っていましたが、北朝(武家)方の畠山直顕(はたけやまただあき)の侵攻が激しく、次第に敗勢となっていました。
 在地勢力として急速に興隆していた楡井頼仲は、征西将軍宮懐良(かねとし)親王の入薩(13342年)を機に南朝方武将としての性格を明確にし、肝付氏に代って大隅で勢力を拡大しました。
 頼仲は、興国元年(1340年)肝属郡にあった帝釈寺(たいしゃくじ)を志布志に移し、開山に同郷の高僧玉山玄提(ぎょくさんげんてい)和尚を招いて大慈寺を開基しました。
 志布志城主として玉山和尚に深く帰依し、二世剛中玄柔(ごうちゅうげんじゅう)の住持についても招請しています。
 正平12年(1357年)2月5日、畠山軍の攻撃で志布志城(松尾城)を落とされた頼仲は、大慈寺宝池庵に入って自刃しております。
 享年57歳。
 法名・大用玄仲大禅定門。
 偈頌(げじゅ)「大事因縁 57年 遊戯自在 剣樹刀山」
 辞世「こしかたもまた行末も 此年の此月のけふ只今にあり」
 1928年(昭和3年)11月10日、正五位を贈位されています。


肝付 兼重(きもつき かねしげ)
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。肝付氏8代当主です。

畠山 直顕(はたけやま ただあき)
 南北朝時代の武将です。
 室町幕府領保全のため日向に下向して南九州の鎮定に当たった人物です。
 延文2年(1357年)、志布志城の合戦で島津氏久(貞久の子)に敗れます。
 正平13年/延文3年(1358年)11月に、懐良親王を推戴する菊池武光の遠征軍に大敗します。

正五位(しょうごい)
 日本の位階及び神階における位のひとつです。
 従四位の下、従五位の上に位します。贈位の場合、贈正五位といいます。


南朝忠臣・志布志城主・大慈寺開基 楡井頼仲公の墓
hiroの部屋 南朝忠臣・志布志城主・大慈寺開基 楡井頼仲公の墓

マルチョンラーメン 本店が直ぐそばにあります。


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都城市指定史跡 田島かくれ念仏洞 都城市山之口町富吉

餅原駅に向かっていると、ナビに「田島かくれ念仏洞」の表示が。
ルート沿いなので、寄ってみることに。

市指定史跡 田島かくれ念仏洞
所在地 都城市山之口町冨吉四九七九番地
■洞入口=高さ約110cm・幅約70cm
■洞 内=高さ約126cm・直径約220cm


都城市指定史跡 田島かくれ念仏洞 都城市山之口町富吉
hiroの部屋 都城市指定史跡 田島かくれ念仏洞 都城市山之口町富吉

 鹿児島藩の一向宗(いっこうしゅう)(浄土真宗(じょうどしんしゅう))に対する弾圧は、慶長2年(1597年)2月、島津義弘(よしひろ)が2度目の朝鮮出兵の際に出した20カ条の置文で、「一向宗の事(こと)、先祖以来御禁制の儀(ごきんせいのぎ)に候の条、彼の宗体(しゅうたい)になり候者は曲事(くせごと)たるべき事」と記したことに始まります。

左奥に念仏洞があります。

都城市指定史跡 田島かくれ念仏洞 都城市山之口町富吉
hiroの部屋 都城市指定史跡 田島かくれ念仏洞 都城市山之口町富吉

 その後、寛永12年(1635年)幕府が出したキリシタン改めにあわせ、全領民の宗旨改めを実施して一向宗の禁圧に乗り出しました。
 また、明暦元年(1655年)には宗体奉行(安政7年(1860年)には「宗門改役」)、宗体座(しゅうたいざ)(のちの宗門改所)が設けられ、取り締まりが強化されました。


都城市指定史跡 田島かくれ念仏洞 都城市山之口町富吉
hiroの部屋 都城市指定史跡 田島かくれ念仏洞 都城市山之口町富吉

 疑いをかけられたものへの拷問は激しく、「薩摩国諸記」には、「割木の上に座しめ、膝上に5、60斤(きん 1斤=0.6kg)の石を乗せ、左右より短棒にて打擲(うちなぐり)致し、皮膚破れ血流、脚骨砕」とその激しさが記されています。
 こうした激しい弾圧のなかでも、ひそかに信仰は続けられていました。信者らは地域ごとに講を組織し、山の中や洞穴、船上などでひそかに法座を開いたのでした。これを「かくれ念仏」と呼び、乙房町、高城町、山田町にもその跡地が残されています。


都城市指定史跡 田島かくれ念仏洞 都城市山之口町富吉
hiroの部屋 都城市指定史跡 田島かくれ念仏洞 都城市山之口町富吉

 山之口町内には、荒平神社法座跡(あらひらじんじゃほうざあと)(川内大谷奥(かわちうたんおく)の山中)や、上森(うわもり)、木上、吹上、田原(たばる)などにもかくれ念仏洞が在りましたが、原形をとどめているのはこの田島(たじま)だけです。
 都城市教育委員会
 山之口町ふるさとの伝統文化掘り起し事業
 宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業



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宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町

都城市庄内町にある「安永城跡(庄内児童公園)」です。

史跡 安永城跡(やすながじょうあと)
市指定年月日 昭和49年5月1日
 安永城は、大淀川の支流庄内川のほとりの庄内町東・西に位置し、本丸・二之丸・取添・金石の四つの曲輪(くるわ)からなっていました。

航空写真を見ると、残っているのは本丸と二之丸の一部で、他は農地等になっているようです。

曲輪(くるわ)
 城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称です。


宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町
hiroの部屋 宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町

 「庄内地理志」によれば、「鶴翼(つるはね)城」ともいい、応仁2年(1467年)6代北郷敏久(ほんごうとしひさ)が勢田ケ辻(せだがつじ)に築いた」というが、築城時期の詳細は不明です。

庄内地理志
 寛政10年~文政期(1798年~1830年)に都城島津家の記録方によって編纂された都城領域の地誌です。
 112巻と拾遺1巻の全113巻からなりますが、現存するのは103巻です。
 22代島津久倫(ひさとも)の代に、記録方の役人であった荒川儀方(ぎほう)が中心となって編纂しました。


宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町
hiroの部屋 宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町

 文明8年(1476年)6月、北郷敏久は都城に移るものの、以後も7代数久(かずひさ)の隠居地、10代時久の摘男相久(すけひさ)の居城となるなど、北郷氏の拠点として重視されました。

北郷 敏久(ほんごう としひさ)1430年~1500年
 室町時代の日向の武将です。
 北郷氏6代当主で、5代当主北郷持久の嫡男です。
 北郷持久が大覚寺義昭事件に連座して都城を追われて以来、24年振りに北郷氏の本拠地である都城へ復帰ししました。
 応仁2年(1468年)、庄内瀬田ケ辻(現在の宮崎県都城市庄内町)に安永城を築き、北郷持久とともに居城としました。
 築城に際し、薩州家の島津国久や豊州家の島津季久が助勢したと伝えられています。


宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町
hiroの部屋 宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町

 文明8年(1476年)、島津宗家11代島津忠昌の命により都城を回復することができましたが、島津忠昌が若年ということもあり、島津氏の勢力には翳りがみられ領内には戦乱が続きました。
 文明17年(1485年)、伊作家の島津久逸が日向の伊東祐国や北原氏と共謀して島津宗家に叛旗を翻しました。
 伊東祐国らは日向飫肥の新納忠続を攻めたので、島津忠昌は北郷敏久に先鋒を命じ自らも出陣しました。
 北郷敏久は伊東祐国を討ち取り、島津忠昌は北郷敏久に褒賞として中郷300町を与えました。


宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町
hiroの部屋 宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町

 太閤検地後の文禄4年(1595年)6月の所領替で、都城盆地は伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)領となり、北郷氏は祁答院(けどういん)へ移されました。

太閤検地(たいこうけんち)
 豊臣秀吉が日本全土で行なった検地(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)です。
 天正の石直し、文禄の検地ともいいます。


伊集院忠棟(いじゅういん ただむね) 1541年~1599年
 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、島津氏の家臣です。
 文禄4年(1595年)に太閤検地が行われ、北郷氏に代わり日向諸県郡庄内の地に8万石の所領を与えられました。
 慶長4年3月9日(1599年4月4日)、伏見の島津家邸で島津義弘の子・忠恒によって殺害されました。


宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町
hiroの部屋 宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町

 慶長4年(1599年)、島津忠恒(しまずただつね)による伊集院忠棟殺害に端を発した庄内の乱では、安永城は伊集院方12外城のひとつとなりました。

庄内の乱(しょうないのらん)
 慶長4年(1599年)に日向国庄内(現在の宮崎県都城市及びその周辺)で起きた、島津氏とその重臣である伊集院氏との争乱です。
 この乱は、島津氏家中最大の内乱であり、最終的には徳川家康の仲介により解決に至りました。
 また、慶長の役直後、関ヶ原の戦い直前の大乱であり、島津氏が関ヶ原の戦いに大軍を送れなかった原因になったともいわれています。


宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町
hiroの部屋 宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町

12外城
 梅北城  宮崎県都城市梅北町
 志和池城 宮崎県都城市上水流町
 安永城  宮崎県都城市庄内町
 野々美谷城 宮崎県都城市野々美谷町
 山之口城 宮崎県都城市山之口町
 月山日和城 宮崎県都城市高城町
 山田城  宮崎県都城市山田町
 梶山城  宮崎県北諸県郡三股町
 勝岡城  宮崎県北諸県郡三股町
 財部城  鹿児島県曽於市財部町
 末吉城  鹿児島県曽於市末吉町
 恒吉城  鹿児島県曽於市大隅町


宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町
hiroの部屋 宮崎の城 安永城跡(庄内児童公園) 都城市庄内町

 乱終結後に北郷氏の手に戻ったものの、元和元年(1615年)、江戸幕府の一国一城令によって廃城となりました。
 その後は麓に地頭仮屋(じとうかりや)が置かれ、安永(あつかい:外城の最高職)を勤めた家臣たちの屋敷が並んでいました。
                                               平成19年3月 都城市教育委員会

一国一城令(いっこくいちじょうれい)
 慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)に江戸幕府が制定した法令です。
 諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じました。


地頭仮屋(じとうかりや)
 薩摩藩が、領内支配のため領内を一一三の区域に分割して設置したものです。


(あつかい)
 江戸時代の薩摩藩における地方職制の1つです。
 外城制における上位の責任者でした。



安永城跡(庄内児童公園)への入口は北側にあります。
また、東側の庄内城山公園に駐車場があります。


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  1. 2022/11/17(木) 15:14:24|
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日本三薬師 法華嶽薬師寺 宮崎県国富町

 宮崎県国富町本庄の中心分から県道356号線(法ケ岳本庄線)を西へ10kmのところにある法華嶽薬師寺は、越後(新潟県)の米山薬師、三河(愛知県)の鳳来寺と並び日本三薬師のひとつとして数えられています。

 718年(養老2年)に釈迦岳(830m)の山頂にひとりの高僧が御堂を建て、薬師如来像を安置し、金峰山長喜院と呼んだのが始まりといわれています。
 806年(大同1年)に唐から帰朝した最澄が九州の霊山を巡礼中、同地に立ち寄り、水に乏しく狭いことから法華岳に大御堂を建立、真金山法華岳と改号しました。

 しかし、明治初年の廃仏思想で貴重な記録や仏具はほとんどなくなったので、その後町内の保存協賛会の手で1969年(昭和44年)に収蔵庫、翌年に拝殿が完成しました。
 平安時代の歌人和泉式部が難病にかかったとき祈願して全治したという言い伝えが残っており、式部谷、身投げ嶽などの伝説もあります。

日本三薬師 法華嶽薬師寺 宮崎県国富町
hiroの部屋 日本三薬師 法華嶽薬師寺 宮崎県国富町

法華嶽薬師寺(ほけだけやくしじ)
「法華嶽薬師寺」の説明板から、
 位置 宮崎市よりおよそ26粁(km)海抜270米(m)の雄大な位置にある。
縁起
 第44代元正天皇の御代 養老2年(718年)8月8日釈迦嶽の頂上に 堂宇を建立し 金峯山長喜院とし 釈迦仏薬師如来の尊像を安置したのに始まる。
 その後、第50代桓武天皇の御代 延暦25年(807年)に傅教大師(最澄)が唐より帰朝し九州の古跡霊山を巡錫した際 この地が霊山勝地であるとして錫(すず)を留め 伽藍僧坊を建立し日光月光12神将不動毘沙門仁王18体を自ら彫刻安置した。
 その間 金気不絶であったため金峯山を真金山と改め 長喜院を法華嶽薬師寺に改号し今日に至(いた)っているが 越後の国米山薬師 三河の国鳳来寺の薬師ともに日本三薬師として 古来著名である。

日本三薬師 法華嶽薬師寺 宮崎県国富町
hiroの部屋 日本三薬師 法華嶽薬師寺 宮崎県国富町

和泉式部参籠のこと
 上東門院(第66代一条天皇の皇后 藤原道長の長女彰子)に仕えていた式部(和泉守橘道具の妻)は 難病を蒙り京都清水観世音菩薩の御堂に3・7(21日)の平癒祈願をなし満願の朝 「日本三薬師に参籠し祈願すべし されば健やかなる身に復るべし」と お告げがあった。
 かくて式部は先ず越後の米山 ついで三河の鳳来寺の両薬師に丹精こめて祈願をしたが何らの霊験もないまま遙か日向に下向して法華嶽薬師に参籠なし 春夏秋冬その朝夕を谷川に身を浄め 精進修行したため薬師のお恵み 加わり晴れて玉の姿に立ち復りよろこび勇んで京への帰途 麓の小川で汚い老人に出逢い 薬師の心引とも知らず すげなく振り切ったところ 忽ち元の病身に変わった。
 この小川を以来 逢初川と称している。

日本三薬師 法華嶽薬師寺 宮崎県国富町
hiroの部屋 日本三薬師 法華嶽薬師寺 宮崎県国富町

 さて、もとの病身に復った式部は もはや御仏の加護も絶えしものと思いこみ辞世の一首「南無薬師、諸病疾除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と詠じ懸崖(今の身投げ嶽)に佇み まさに身まからん瞑目の一瞬薬師如来のお姿現れ「村雨は ただ一時のものぞかし己が蓑笠そこに脱ぎおけ」との返歌があり 心に悟を感じた式部は更に1年の光陰 ひたすら修行にあけくれ ついに清浄の身となり 京への帰路につかれた。
 その後、式部礼参のおり秘蔵の琵琶を奉納した 添書その他の記録が現存している。
 また式部が参籠中 日毎3度行水して身を浄めたという谷川のほとりに 式部の筆跡なる「和泉式部」と刻した岩が当時のよすがを伝えている。

日本三薬師 法華嶽薬師寺 宮崎県国富町
hiroの部屋 日本三薬師 法華嶽薬師寺 宮崎県国富町

法華嶽鶉(うづら)」のこと
 天正天皇の御代はじめて堂宇を建立した際 本堂御柱の切端に類似したものがあり 寺僧これに目羽手を描き 尊像の御前に供え 朝夕 熱心に礼拝すると 不思議にも鶉の鳴き声がしたという。
 現存玩具として各地で愛用され 昭和15年天皇陛下 日向下向の際 法華嶽鶉4個を天覧の上お買い上げになった。
 初御縁日:旧正月8日・9日 
 夏期:旧6月8日
 開山御縁日:旧8月8日
 御開帳日:旧12月23日


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山口の寺 香山公園 国宝瑠璃光寺(るりこうじ) 五重塔 山口市木町

香山公園 国宝瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔は美しいですね。

この季節、紅葉が少しだけ残っていました。

国宝瑠璃光寺 五重塔
 重文指定年月日:1903年4月15日(明治36年)
 国宝指定年月日:1952年11月22日(昭和27年)

 瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔は、山口を本拠地として活躍した室町時代の守護大名である大内義弘(1356年~1399年)の死後、その弟の盛見が兄の菩提を弔って建立したと伝わっていて、大正4年に行われた解体修理の際に、嘉吉2年(1442年)の墨書がみつかり、建築年代が明らかとなりました。

香山公園 国宝瑠璃光寺(るりこうじ) 五重塔 山口市木町
hiroの部屋 香山公園 国宝瑠璃光寺(るりこうじ) 五重塔 山口市木町

 高さ 31.2m で、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根は、軒の出が比較的深く、勾配が緩やかで、軒先が軽快に反り上がり、加えて三重目より上に縁と高欄を設けず、二層にのみ回縁(まわりえん)がついて、全体に細身でひきしまった姿が特徴的です。

香山公園 国宝瑠璃光寺(るりこうじ) 五重塔 山口市木町
hiroの部屋 香山公園 国宝瑠璃光寺(るりこうじ) 五重塔 山口市木町

 初重(1階)の内部には心柱が通り、心柱を覆い隠すように日本の仏塔では唯一となる円形の須弥壇(しゅみだん)を設け、僧形の大内義弘像と阿弥陀如来像を祀っています。
 屋外にある五重塔としては日本で10番目に古い。

香山公園 国宝瑠璃光寺(るりこうじ) 五重塔 山口市木町
hiroの部屋 香山公園 国宝瑠璃光寺(るりこうじ) 五重塔 山口市木町

・檜皮葺(ひわだぶき):屋根葺手法の一つで、檜(ひのき)の樹皮を用いて施工します。
・須弥壇(しゅみだん):仏教寺院において本尊を安置する場所であり、仏像等を安置するために一段高く設けられた場所のことです。


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  1. 2021/12/05(日) 09:13:02|
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日南市指定文化財 史跡飫肥城旧本丸跡 宮崎県日南市飫肥

日南市指定丈化財 平成3年8月1日指定
史跡 飫肥城旧本丸

 飲肥城は東西約750m、南北約500mの城域に大小13の曲輪と犬馬場などからなる広大な城である。

日南市指定文化財 史跡飫肥城旧本丸跡 宮崎県日南市飫肥
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 各曲輪は、シラス台地を空堀で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭において特徴的な形態である。

日南市指定文化財 史跡飫肥城旧本丸跡 宮崎県日南市飫肥
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 戦国時代には代々島津氏一族が城主であったが、天正15年(1587年)に飲肥藩初代伊東祐兵が豊臣秀書から飲肥を領地として与えられて以後、明治時代まで伊東氏の居城となった。

日南市指定文化財 史跡飫肥城旧本丸跡 宮崎県日南市飫肥
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 城内の各曲輪は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などの名称で呼ばれていた。

日南市指定文化財 史跡飫肥城旧本丸跡 宮崎県日南市飫肥
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 このうち、元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学枚グラウンド)が完成するまでは旧本丸が藩主の御殿であった。

日南市指定文化財 史跡飫肥城旧本丸跡 宮崎県日南市飫肥
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 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享2年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。

日南市指定文化財 史跡飫肥城旧本丸跡 宮崎県日南市飫肥
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日南市指定文化財 史跡飫肥城旧本丸跡 宮崎県日南市飫肥
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宮崎の仁王像 南方神社(高木)の仁王像 都城市山之口町花木前方

都城市山之口町花木前方にある南方神社の鳥居の両脇に仁王像が建っています。

宮崎の仁王像 南方神社(高木)の仁王像 都城市山之口町花木前方
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元文4年(1739年)に月待行事の二十三夜待(にじゅうさんやまち)の供養を目的として作られたものだそうです。

月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。

宮崎の仁王像 南方神社(高木)の仁王像 都城市山之口町花木前方
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宮崎の仁王像 南方神社(高木)の仁王像 都城市山之口町花木前方
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宮崎の仁王像 南方神社(高木)の仁王像 都城市山之口町花木前方
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宮崎の仁王像 南方神社(高木)の仁王像 都城市山之口町花木前方
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  1. 2021/08/25(水) 18:30:34|
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宮崎県の山の神 山之口永野の山の神 都城市山之口町山之口永野 永野神社境内

永野神社の標柱の下に、「山の神」と書かれています。

宮崎県の山の神 山之口永野の山の神 都城市山之口町山之口永野 永野神社境内
hiroの部屋 宮崎県の山の神 山之口永野の山の神 都城市山之口町山之口永野 永野神社境内

「山之口永野の田の神」の側に、「山の神」が祀られています。

宮崎県の山の神 山之口永野の山の神 都城市山之口町山之口永野 永野神社境内
hiroの部屋 宮崎県の山の神 山之口永野の山の神 都城市山之口町山之口永野 永野神社境内


宮崎県の山の神 山之口永野の山の神 都城市山之口町山之口永野 永野神社境内
hiroの部屋 宮崎県の山の神 山之口永野の山の神 都城市山之口町山之口永野 永野神社境内


山の神(やまのかみ)
農民の間では、春になると山の神が山から降りてきて田の神となり豊穣をもたらし、秋には再び山に戻るという農耕の神ですが、山の民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神です。



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  1. 2021/08/24(火) 18:15:02|
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宮崎県の山の神 山之口天神川原の山の神 都城市山之口町山之口天神川原 道路沿い

山之口天神川原の田の神と共に山の神が祀られています。

大きさ測定するのを忘れていました。

宮崎県の山の神 山之口天神川原の山の神 都城市山之口町山之口天神川原 道路沿い
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宮崎県の山の神 山之口天神川原の山の神 都城市山之口町山之口天神川原 道路沿い
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大きさは、田の神と同じぐらいです。

宮崎県の山の神 山之口天神川原の山の神 都城市山之口町山之口天神川原 道路沿い
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山の神(やまのかみ)
農民の間では、春になると山の神が山から降りてきて田の神となり豊穣をもたらし、秋には再び山に戻るという農耕の神ですが、山の民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神です。



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  1. 2021/08/21(土) 18:30:02|
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