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宮崎特攻基地慰霊碑 宮崎空港西

 特攻基地と言えば鹿屋基地が有名ですが、宮崎にも特攻基地がありました。
 宮崎空港の西側の一角に「宮崎特攻基地慰霊碑」があります。
 慰霊碑には、宮崎基地(赤江飛行場)から飛び立った特攻隊などの英霊385柱と宮崎県出身者で宮崎基地以外の基地から発進した英霊414柱、合計799柱の英霊が合祀されています。

海軍航空隊宮崎基地営門(西門)の門柱
 昭和18年12月1日赤江海軍練習航空隊発足時に設置されたものと伝えられています。

宮崎特攻基地慰霊碑 宮崎空港西
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宮崎特攻基地慰霊碑
 昭和58年に建立され、宮崎基地から飛び立った特攻隊を含む英霊385柱と宮崎県出身者で宮崎基地以外の基地から発進した英霊414柱、合計799柱の英霊が合祀されています。

宮崎特攻基地慰霊碑 宮崎空港西
hiroの部屋 宮崎特攻基地慰霊碑 宮崎空港西


乗員3名(操縦員、偵察員、電信員)で特攻しています・・・

・海軍 陸上爆撃機 銀河11型
hiroの部屋 宮崎特攻基地慰霊碑 宮崎空港西

 大日本帝国海軍が開発・実用化した双発爆撃機。乗員3名。
 海軍の航空機関連技術開発を統括する航空技術廠が大型急降下爆撃機として開発した機体ですが、一式陸上攻撃機の後継機として太平洋戦争後半の戦いに投入されました。
 小型・軽量化のため、一式陸攻を始めとする双発爆撃機では7名程度の搭乗員数(操縦員、電信員各2名、偵察員及び機銃員数名)を3名(操縦員、偵察員、電信員)に削減することで胴体の最大幅を一式陸攻の60%の1.2mに抑え、前面投影面積の最小化による空気抵抗の削減を図っています。また風防を低く抑えたため、彗星と同じ背負式落下傘を採用しています。
 機体略号:P1Y1
 全幅:20.0m
 全長:15.0m
 全高(水平):5.3m
 主翼面積:55.0m2
 自重:7,265kg
 正規全備重量:10,500kg
 過荷重重量:13,500kg
 発動機:誉一二型(離昇1,825馬力)
 最高速度:546.3km/h(高度5,900m)
 実用上昇限度:9,400m
 航続距離:1,920km(正規)
 爆装:250~500kg爆弾2発又は800kg爆弾1発
 雷装:九一式航空魚雷1発
 武装:20mm旋回機銃2挺(機首・後部)
 乗員:3名
 製造者:中島飛行機
 生産数:1,102機

・海軍 九六式陸上攻撃機23型
 大日本帝国海軍の双発陸上攻撃機。乗員7名。
 発動機の強化に伴い燃料搭載量も5,182リットルに増加されました。412機生産。

・海軍 一式陸上攻撃機24型
 大日本帝国海軍の双発陸上攻撃機。乗員7名(主/副操縦手、主/副偵察手、主/副通信手、搭乗整備員)

・陸軍 四式重爆撃機 飛龍
 大日本帝国陸軍の双発重爆撃機。乗員8名

宮崎特攻基地慰霊碑 宮崎空港西
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【宮崎基地の沿革】
 1943年(昭和18年)12月より、陸上攻撃機[双発(エンジン二基)の爆撃機]の練習航空隊、宮崎空として開隊した宮崎基地。
 翌1944年(昭和19年)7月より始まった空地分離(航空隊の移動等の便を良くする為に、基地が固有の航空部隊を持たないこと) により陸攻の練習航空隊は松島へ移動。
 その後はいくつかの陸攻部隊等が、短期間訓練基地や南方戦線への中継基地として使用した。

 1944年(昭和19年)10月には台湾東方沖に接近した米機動部隊を攻撃する為に宮崎基地は前進中継基地 (最終出撃基地は鹿屋と那覇)として使用(台湾沖航空戦)。
 これ以降フィリピン戦が始まり戦線は徐々に日本本土に向け後退し、宮崎基地は前線基地としての様相を呈していった。

 そして遂に1945年(昭和20年)3月18日都井岬南東沖210km付近に接近した米機動部隊が艦載機を発艦させ、宮崎基地を攻撃、 基地は基地機能を一時的に喪失した。
  この攻撃は4月1日より始まる沖縄攻略戦の事前攻撃であった。
  この米機動部隊を攻撃する為、3月18日より九州各地の基地より攻撃隊が連日発進した(九州沖航空戦)。

宮崎特攻基地慰霊碑 宮崎空港西
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菊水作戦(きくすいさくせん)
 太平洋戦争末期の天号作戦中、沖縄に来攻する連合国軍に対し特攻攻撃を実施した日本海軍の作戦です。
 作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来します。
 第一機動基地航空部隊(第三航空艦隊、第五航空艦隊、第十航空艦隊)によって1945年4月6日の菊水一号作戦から6月22日の菊水十号作戦まで行われ、これらに策応し、海軍の第一航空艦隊や陸軍の第六航空軍、初期には第八飛行師団も総攻撃を行いました。
 これらの作戦において、海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2,045名、陸軍では1,022名が特攻により戦死しました。


19歳の搭乗員もいます。

海軍搭乗員の階級
 将官: 大将 ・中将 ・少将
 佐官: 大佐 ・中佐 ・少佐
 尉官: 大尉 ・中尉 ・少尉
 准士官: 飛行兵曹長(飛曹長)
 下士官: 上等飛行兵曹(上飛曹) ・一等飛行兵曹(一飛曹) ・二等飛行兵曹(二飛曹)
 兵: 飛行兵長(飛長) ・上等飛行兵(上飛) ・一等飛行兵(一飛) ・二等飛行兵(二飛)

 宮崎基地からは、1945年(昭和20年)3月21日に銀河が九州南東海面に数機発進、内3機が未帰還となった。
 『神風特別攻撃隊 菊水部隊銀河隊』1945年(昭和20年)3月21日 7時45分発進 銀河3機 9柱
 ・上飛曹 中川勇(26栃木) ・中尉 馬場繁郎(27富山) ・上飛曹 山下義春(20石川) 攻撃501飛行隊
 ・少尉 後藤紀雄(25愛知) ・一飛曹 鍛冶谷清一(21福岡) ・一飛曹 村田豊(20石川) 攻撃501飛行隊
 ・上飛曹 飯竹甲子郎(22茨城) ・上飛曹 福田喜好(22和歌山) ・上飛曹 菊池孝行(22愛媛) 攻撃501飛行隊

 この3月18日から21日迄の銀河の未帰還を『神風特別攻撃隊 菊水部隊銀河隊』として全軍布告した。
 これを皮切りに、沖縄周辺の米艦隊に向け

 3月27日に『第1銀河隊』、3時34分~44分発進 銀河5機 15柱
 宮崎を発進した第1銀河隊の高橋中尉以下15名(銀河5機)は沖縄東方洋上の敵機動部隊に突入した。
 ・中尉 大田博(23静岡) ・一飛曹 田中三人(23石川) ・一飛曹 井上誠次郎(21愛知) 攻撃501飛行隊
 ・上飛曹 赤沼今朝幸(23長野) ・一飛曹 山瀧信一(23長野) ・一飛曹 谷野良秋(21石川) 攻撃501飛行隊
 ・少尉 大井良美(26長崎) ・上飛曹 福島照夫(20東京) ・一飛曹 工藤八郎(22大分) 攻撃501飛行隊
 ・上飛曹 杉浦忠三(22富山) ・中尉 高橋惣吾(24福島) ・一飛曹 南里正利(20佐賀) 攻撃262飛行隊
 ・一飛曹 松田榮(23福岡) ・上飛曹 峰政幸雄(23岡山) ・二飛曹 筒井武彦(22福岡) 攻撃262飛行隊


 4月2日に『第2銀河隊』、 4時14分発進 銀河1機 3柱
 第2銀河隊の一機木村中尉以下3名が南西諸島東方の敵機動部隊に突入した。
 ・中尉 木村義雄(25新潟) ・上飛曹 中島襄(21群馬) ・上飛曹 森正勝(23島根) 攻撃501飛行隊

 4月3日に『第3銀河隊』、15時23分~31分発進 銀河3機 9柱
  第3銀河隊河合少尉以下9名(銀河3機)は宮崎から南西諸島東方洋上の敵機動部隊を索めて出撃、沖縄南方で特攻散華した。
 ・二飛曹 氏本成文(20愛媛) ・少尉 河合達視(25宮城) ・二飛曹 町田六郎(20大阪) 攻撃262飛行隊
 ・飛長 中本志計雄(20兵庫) ・二飛曹 切建兼雄(21長崎) ・二飛曹 野口一正(21福岡) 攻撃262飛行隊
 ・飛長 田中四郎吉(20山口) ・一飛曹 宮谷和男(21大阪) ・二飛曹 讃井榮(?福岡) 攻撃262飛行隊


菊水一号作戦
 4月7日に『第4銀河隊』、12時43分~48分発進 銀河4機 11柱
 宮崎からは第4銀河隊三木少尉以下11名(銀河4機)が出撃、南西諸島の敵機機動部隊を索めて突入した。
 ・飛長 横畑一吉(20広島) ・一飛曹 保刈良男(22新潟) ・一飛曹 片村利男(21福岡) 攻撃501飛行隊
 ・上飛曹 松浪武正(26大分) ・上飛曹 岡林春實(21高知) 攻撃262飛行隊
 ・少尉 三木光(23香川) ・上飛曹 遠藤良一(21大阪) ・二飛曹 岡崎宇市(19岐阜) 攻撃262飛行隊
 ・二飛曹 波田敏之(20三重) ・二飛曹 成瀬光吉(21愛知) ・二飛曹 大塚忠保(?愛媛) 攻撃262飛行隊


 4月7日に『第3御盾隊(706部隊)』、 12時30分 銀河5機 15柱
 宮崎からは第3御盾706部隊徳平少尉以下15名(銀河5機)が、出撃、沖縄周辺の敵機機動部隊を索めて突入した。
 ・飛長 吉澤久與(19東京) ・飛曹長 堀越浩(?広島) ・上飛曹 植村孝雄(21香川) 第706空攻撃405飛行隊
  19歳の飛長が操縦しています。
 ・飛長 斎木直次(20新潟) ・一飛曹 坂本保登(20広島) ・飛長 吉田政道(20香川)  第706空攻撃405飛行隊
 ・飛長 谷口昌三(20高知) ・一飛曹 田原光利(20福岡) ・一飛曹 松尾巧(20長崎)  第706空攻撃405飛行隊
 ・上飛曹 田中哲郎(?千葉) ・少尉 徳平宰郷(23兵庫) ・上飛曹 仮屋眞教(?熊本) 第706空攻撃405飛行隊
 ・二飛曹 亀倉梅好(20新潟) ・二飛曹 大道義雄(20埼玉) ・二飛曹 五味多喜男(19神奈川) 第706空攻撃405飛行隊


菊水二号作戦
 4月11日に『第5銀河隊』、15時30分~54分 銀河5機 15柱
 宮崎から第5銀河隊山本大尉以下15名(銀河5機)が沖縄東方洋上に敵機動部隊を索めて出撃、喜界島南方に散華した。
 ・大尉 山本裕之(24福岡) ・飛曹長 小薬武(25栃木) ・上飛曹 佐藤武司(22岐阜) 攻撃262飛行隊
 ・一飛曹 酒井啓雄(22神奈川) ・一飛曹 佐野國雄(22静岡) ・一飛曹 坂田伸(20宮崎) 攻撃501飛行隊
 ・一飛曹 永井茂(22愛媛) ・一飛曹 工藤丑雄(21秋田) ・上飛曹 長岡友正(22北海道) 攻撃501飛行隊
 ・少尉 上野善治(23栃木) ・上飛曹 神尾穣(22福井) ・一飛曹 加茂敏雄(20茨城) 攻撃501飛行隊
 ・一飛曹 猪股道夫(22宮城) ・一飛曹 菅井彌十(21群馬) ・飛長 前川五郎(20新潟) 攻撃501飛行隊


菊水三号作戦
 4月16日に『第6銀河隊』、10時26分~40分 銀河8機 24柱
 宮崎からは第6銀河隊橋本中尉以下24名(銀河8機)が出撃して喜界島南方洋上の敵機動部隊に突入した。
 ・二飛曹 本城勝志(20岩手) ・中尉 橋本誠也(24徳島) ・二飛曹 佐井川正之(21福岡) 攻撃262飛行隊
 ・二飛曹 鈴木憲司(21神奈川) ・上飛曹 出山秀樹(21東京) ・二飛曹 高橋豊(20島根) 攻撃262飛行隊
 ・飛長 北島治郎(19徳島) ・少尉 薬眞寺靖(24愛媛) ・二飛曹 中村行男(21茨城) 攻撃262飛行隊
  19歳の飛長が操縦しています。
 ・飛長 西兼登二(20山口) ・一飛曹 斎藤三藤(20群馬) ・一飛曹 中西克巳(20和歌山) 攻撃262飛行隊
 ・二飛曹 金内光郎(20山形) ・少尉 大河原誠(25岩手) ・二飛曹 光石昭通(19兵庫) 攻撃262飛行隊
 ・飛長 大西月正(20北海道) ・一飛曹 波多野進(23新潟) ・二飛曹 頼元健次郎(21大阪)攻撃262飛行隊
 ・飛長 富士田富士弥(20大阪) ・上飛曹 植垣義友(25鳥取) ・二飛曹 藤谷成美(20愛知)攻撃262飛行隊
 ・一飛曹 本山幸一郎(23高知) ・上飛曹 道又重雄(21岩手) ・二飛曹 久野朝雄(20長崎)攻撃262飛行隊


菊水六号作戦(第七次航空総攻撃)
 5月11日に『第9銀河隊』、 5時21分~6時24分 銀河6機 18柱
 宮崎から第9銀河隊(銀河六)深井中尉以下18名(銀河6機)小雨をついて特攻隊は出撃した。
 ・中尉 深井良(23神奈川) ・上飛曹 俵一(21東京) ・上飛曹 北山博(22大分) 攻撃501飛行隊
 ・中尉 鈴木圓一郎(21静岡) ・上飛曹 三宅文夫(22徳島) ・上飛曹 田中榮一(21埼玉) 攻撃501飛行隊
 ・上飛曹 小畠弘(22兵庫) ・中尉 村上守(23大分) ・一飛曹 佐藤昇(20新潟) 攻撃501飛行隊
 ・上飛曹 谷岡力(23福井) ・少尉 山川芳男(23東京) ・一飛曹 杉野三次(21三重) 攻撃406飛行隊
 ・一飛曹 松木学(20愛媛) ・一飛曹 山根三男(19廣島) ・一飛曹 伊藤勲(20大分) 攻撃406飛行隊
 ・飛長 長谷部六雄(20新潟) ・一飛曹 吉田雄(19和歌山) ・二飛曹 信本廣夫(19広島) 攻撃406飛行隊


菊水七号作戦(義号作戦と第八次航空総攻撃)
 5月25日の『第10銀河隊』、4時35分~50分発進 銀河3機 8柱
 宮崎から第10銀河隊(銀河3機)小口中尉以下8名が出撃し、沖縄周辺の敵艦船群に突入した。
 ・一飛曹 越野時貞(21愛知) ・一飛曹 鈴木喜久男(20福島) ・一飛曹 藤澤彌須雄(20滋賀) 攻撃406飛行隊
 ・一飛曹 岩品福三郎(22静岡) ・中尉 小口博造(23長野) ・上飛曹 平野勇(?岩手) 攻撃406飛行隊
 ・飛曹長 吉田湊(26福岡) ・一飛曹 小山 秀一(21佐賀) 攻撃406飛行隊


 を最後に、現在判明しているだけで未帰還機総数43機、搭乗員217名が、 宮崎を最後の地として飛び立ち、還らぬ人となった。

 その他にも一時的に海軍の指揮下に入った陸軍飛行第七・第九十八戦隊の四式重爆撃機 飛龍が、7月1日に海軍の指揮下を離脱するまで、沖縄周辺の米艦隊に向け雷撃を繰返し、多数の犠牲者を出した。
 海軍側も七六二空K(攻撃)-五〇一飛行隊が、6月一杯まで宮崎基地より夜間や薄暮の雷撃を繰返し、多数の犠牲者を出した。

 その後、本土決戦の準備のため、宮崎基地を離れ島根県の大社基地へ順次後退した。
 この間、宮崎基地は度重なる空襲を受け、飛行場施設は軒並み破壊され、8月15日の終戦を迎えた。

宮崎特攻基地慰霊碑 宮崎空港西
hiroの部屋 宮崎特攻基地慰霊碑 宮崎空港西

【碑文】
 この地は、「旧海軍赤江飛行場宮崎海軍航空隊跡地」である。
 昭和20年8月15日の終戦にいたるまで日本防衛の南九州最大の航空基地として陸海軍共同作戦を含む数多くの戦闘作戦に特別攻撃隊及び雷撃隊出撃の基地となって大東亜戦の戦史に残る偉跡の地である。

 私共 現在平和と繁栄の生活を享受しております。
 然しこの平和と繁栄の陰には大戦中における数多くの国民の犠牲と数百万の戦死戦没戦傷病者、大多数の国民の困苦欠乏の生活があったことを忘れてはならない。
 なかでも特に祖国の悠久の平和と最後の勝利を信じて、“祖国のために”を合い言葉に南海の空で散った 陸海軍特別攻撃隊員及び雷撃隊員たちの崇高なる精神と遺徳は永く後世に伝承したい。

 赤江飛行場は昭和18年12月1日付で海軍航空隊の練習基地として開隊、昭和19年7月赤江基地は練習基地から第一線の作戦基地への編成方針が打ち出され正式に作戦基地として開隊したのは、 昭和19年10月10日である。

 昭和19年10月12日台湾沖航空戦に突入した。
 当日赤江基地に展開していた陸海軍期の攻撃隊及び雷撃隊の出撃となった。
 赤江基地を主軸として発進又は中継基地として作戦に参加した海軍機は、「一式陸上攻撃機」をはじめ344機、陸軍機は「飛龍」延200機、総機数544機である。
 この作戦による戦死者は海軍635名、陸軍80名である。

 戦局はこの作戦終結とともに勝機が空しく去った。
 一死これが戦局の好転をもたらすとは思わない。
 徒死を待つより大空に散るを潔しとする特別攻撃隊にすべてを托し国に報ゆる信念に燃える陸海の若鷹は 愛機とともに敵空母に体当たり攻撃を敢行した。
 それは総力をあげて比島レイテ湾に突入する帝国連合艦隊に悲運の翼なき第一航空艦隊が送る最後のはなむけであった。

宮崎特攻基地慰霊碑 宮崎空港西
hiroの部屋 宮崎特攻基地慰霊碑 宮崎空港西

 昭和19年10月25日第一神風特別攻撃隊敷島隊の第一陣である。
 海軍における神風特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は布告第59号を始め布告第259号を最後に2507名になる。
 陸軍における特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は1392名になる。
 特別攻撃隊の隊員のほとんどがこの赤江飛行場を飛びたち直接攻撃に参加したもの、或は中継基地として比島、台湾、沖縄で特攻作戦に参加し、我が身命を捧げることにより愛する肉親や懐しい故郷そして祖国を救い得るならばの一念に燃え 未曽有の国難に殉じて散華した特別攻撃隊員若鷹の最後の地である。

 昭和20年3月18日宮崎初空襲である。
 米艦載機による銃撃は午前5時48分夜戦一機の銃撃に始まり午前8時までグラマン戦闘機延150機、午前10時まで延540機、正午より午後4時45分まで延200機、これを反撃したのが、第721航空隊の戦闘306、307両飛行隊の「零戦」90機である。

 この初空襲以降の宮崎空襲による民間人の人的被害は死亡123名、負傷者176名である。

 今大東亜戦線において、有能な人材を失った戦争の責任は大きい。
 若桜の蕾のまま散華した献身無私の先輩同期そして後輩の崇高な精神を今再び結び合い白砂清松の海岸線、無限に広がる紺碧の赤江灘と青い空は今もなお美しい姿を留めているこの地に無量の感をもって当時を偲び我々同志相集い宮崎県民及び全国の有志の浄財によって碑を建立し愛国の赤誠に殉じた友たち、宮崎大空襲における民間戦災犠牲者の 鎮魂と世界恒久の平和と旅するものの空の安全の祈りをこめて民間航空空の殉職者の霊を合祀し忘れ去らんとする先人の 偉業を顕彰し永く後世に伝え希うためゆかりのこの地に碑を建立し碑名を「鎮魂之碑」と銘記しここに碑を捧ぐ。

宮崎特攻基地慰霊碑 宮崎空港西
hiroの部屋 宮崎特攻基地慰霊碑 宮崎空港西


 ここ宮崎の赤江飛行場は宮崎海軍航空隊(宮崎基地)として、南九州における本土防衛の重要な戦略的基地であった。
 宮崎基地では、海軍航空隊神風特別攻撃隊を主体としていたが、陸軍の特攻機も在籍部隊として発進していった。
 とくに陸軍機には海軍の予備学生出身者が、航法士・機長として搭乗し、陸海軍共同の特攻隊が編成されている。

 宮崎基地から発進した特攻隊員は全国各都道府県出身者で占め、途中殉職者を含めて385柱の英霊を祀る。
 併せて宮崎県出身者で宮崎基地以外の基地から発進した特攻隊員または、訓練中の殉職者、戦傷病死者を含めた陸海軍航空機搭乗員414柱を祀り、合計799柱の英霊を合祀している。

 戦後35年を経た昭和55年、ゆかりの旧陸海軍航空機搭乗員で組織する各戦友会が発議し、宮崎特攻基地慰霊碑建立期成同盟会を結成した。
 昭和58年3月、宮崎空港西端に『鎮魂』の碑が除幕され、平成10年には752柱の慕銘碑(現在799柱)も完成した。

2022/12/22更新


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  1. 2022/09/30(金) 12:36:53|
  2.  ┣ 宮崎県の施設|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:2

鉄道開業150年 JR九州鹿児島本線 蒸気機関車「SL人吉」58654号(ハチロク8620形) 鳥栖へ走る 11:14 玉名駅 | ホーム | 鉄道開業150年 JR九州日豊本線 境川橋りょう 都城市山之口町 14:51上り 817系電車 普通宮崎行6886M

コメント

失礼します。

植村孝雄の年齢ですが、21歳戦死です。

よろしくお願い致します。
  1. 2023/12/22(金) 18:16:17 |
  2. URL |
  3. 植村徹 #- |
  4. 編集

記載致しました。

ご連絡有難うございます。
年齢を記載致しました。
  1. 2023/12/22(金) 19:09:15 |
  2. URL |
  3. hiro #vZORtMn2 |
  4. 編集

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